ブログに復帰したかと思えば早速スローペースな更新のペンタです。
伊藤計劃氏の『ハーモニー』という小説を読んだところ、タイトルにも描いたとおりとんでもない衝撃を受けてしまいました。
この感動を誰かと共有したい、というわけでもないのですが、頭の中を整理するためにブログ記事という形で文章にさせてもらいます。
また、『ハーモニー』を百合SFのオールタイム・ベスト作品として紹介している『アステリズムに花束を』という百合SFアンソロジーの感想も書いています。
ぜひ併せてご覧ください。
以下、ストーリーの進行的にはさほどネタバレしないのですが、それ以上に小説の根本に関わる点でのネタバレがありますので未読の方は自己責任でお願いします。
小説の舞台
さて、この『ハーモニー』という小説は、高度に発達した医療技術により、健康・生活の管理が第一に考えられるようになった近未来のユートピア(またはディストピア)を舞台としています。
この世界では、WatchMeと呼ばれる身体監視システムを体内に取り込むことで健康状態を絶えず記録し、ネットワークを介して個人用医療薬精製システム=メディケアと連携して薬を処方されます。
それによって、人類は常に「健康である」ことができるようになっているのです。
ただ、それが行き過ぎて健康でなくてはならない、健康でないことは社会に損失を与えることだ、という考えが浸透してしまっています。
人間の個人としての側面以上に、社会的リソースである、という認識が強いわけですね。
ETMLタグの衝撃
この小説の特徴として、HTMLタグのような記述が文章中に随時挿入されていることが挙げられます。
具体例を出すと下記のような感じです。
<anger>
○○××~~(小説としての本来の文章)
</anger>
上記のangerの箇所には、fear, recollection, confusionなど、場面によって感情にまつわる多くの語句が入れられています。
読み始めてすぐには「なんだこれは」という程度の認識でしかありませんでした。
途中まで読み進めていくと、おそらくWatchMeによって観察された、主人公の感情の変化の記録なのだろうと思っていました。
ただ、エピローグの冒頭1ページに書いてあった内容ですべての謎が解けました。
そして、その1ページ、もっと言ってしまえばある一段落こそがぼくがこの物語において最も重要だと思う箇所、衝撃を受けた箇所です。
その一段落の引用です。
このテクストは、etmlの1.2で定義されている。
etml1.2に準拠したエモーションテクスチャ群をテキストリーダにインストールしてあれば、文中タグに従って様々な感情のテクスチャを生起させたり、テクスチャ各所のメタ的な機能を「実感」しながら読み進むことが可能であるように書かれている。
現在においては、このテクスト中に埋め込まれたetmlで文脈が要求する感情を造り出す方法のみが、人間の脳に残された種々の「感情」という機能を生起させるトリガーとして存在している。
生存上、喜怒哀楽が要求される局面は、人類が完全に社会化された現在においてはあまりに少ない。
つまり、感情や思考、欲求などの葛藤の結果としての「意識」(こう定義づけたことは本文を読んだ方なら納得していただけるでしょう)というものが全人類から失われてしまった世界において、この物語の語り手、つまり「わたし」が感じたことを体感するためにはこういったETMLタグというものを用いて疑似体験するしかなくなってしまっているのです。
個人的に、この物語の本文はすべて、この設定を最大限の衝撃で以って読者に叩きつけるためにあったのではないか、とすら感じます。
この小説が一人称視点で書かれているのも、三人称視点では感情というものを他人事として客観的にしか描くことができないからなのではないでしょうか。
感情を実感させるためのETMLタグをフルに機能させるためには、一人称視点で描く必要があるのです。
物語の中の世界の「読者」にとっては、この物語は一人称視点で描かれた伝記であり、ある種の歴史書でもあることになります。
ひどく主観的で、感じたことや考えたこと、心の葛藤などすべてが描かれたこの物語も、ETMLタグなくしては読者が語り手に自身を同化することができない世界になっていると言えます。
人々が当たり前に生活していながらも一切の感情のない世界。
そして、その世界において必要とされるETMLタグの存在。
この設定の発想はもはや発明とすら呼べるものであり、それを生み出した伊藤計劃は天才だと思いました。
それくらいに衝撃を受けましたし、鳥肌が止まりませんでした。
また、衝撃を受けたということからは外れてしまいますが、この物語で面白いのは、「意識」がなくとも人間の活動には影響が出ないとされている点です。
「意識」がなくなれば行動や思考の迷いがなくなり、すべての行動は自明に選択されることになると説明されています。
怒る、泣くといった行動を取ることはあってもそれらはすべて表面上のものであり、いわば怒るという行動をプログラムが選択しているような状態になります。
人間本来の感情の起伏によってそういった行動が表出しているのではなく、この場面では泣く/怒ることが適切だ、とプログラムが判断して、泣いているように、起こっているように見えるための行動を取らせているに過ぎないのです。
まさに死にながら生きている、または生きながらにして死んでいる、ゾンビのような状態です。
この物語が存在する必然性
ぼくがこの小説を読んで納得(?)したことに、この物語が物語として存在することの理由・必然性がはっきりしている、という点があります。
この物語が綴られたのは、世界中の人間から「意識」が奪われた世界においてのことです。
世界的な転換点を経てその世界に至るまでの最前線を生き、内情に最も深くまでたどり着いた人物であれば、その証言や行動は歴史的な価値のある資料と呼べるでしょう。
だからこそ、その人物を主人公とした物語=『ハーモニー』が綴られたのです。
これほどまでに明快なロジックで、そして必然的な理由で存在している物語を、ぼくは他に知りません。
ぼく自身が大して本を読むわけでもないので、もちろんぼくが知らないだけで存在はしているのでしょう…。
伊藤計劃という小説家が書いた物語ではなく、『ハーモニー』の舞台となった世界において記された文章である、と感じさせるのに十分な説得力があります。
虚構の物語であっても、と言うよりもむしろ、フィクションであるからこそ徹底的に物語として在る理由を存在させる、という筆者の小説に対する姿勢や信念のようなものを感じるように思います。
終わりに
以上、ぼくが『ハーモニー』を読んで感じたことや考えたことをまとめてみました。
読書感想文の定型文として「とても考えさせられました」というものがあります。
ぼく自身、その一文を何度となく書き綴ってきたのですが、この『ハーモニー』を読んで、今までの比ではないくらいに感じ、考え、ある種の感動を受けました。
そんな物語を支えているのが、伊藤計劃氏の圧倒的に精緻な描写であると考えます。
ディテールに拘って練られた虚構の世界というのは、痛いほどに真実味があります。
「嘘も100回言えば真実になる」ではありませんが、小説というフィクションを、細部まで徹底的に設定を詰めて描き切ることでこの上ないリアリティを生み出すことができるのだ、と思わずにはいられません。
この物語と同じ世界にあって、時間軸的には大きく遡った舞台を描いた『虐殺器官』も素晴らしい小説です。
物語として直接のつながりはありませんが、世界観として共通するところが多くあるように思われます。
ぜひに。
ペンタ