テトたちのにっきちょう

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テト・ペンタ・ヘキサの3人組によるゆるふわ系ブログ

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オタクの応援行為を楽しむヘキサのお話

こんにちは。

 

アイマスのライブ初参戦して気持ちよくなっているヘキサです。

 

今回は、そのアイマスのライブに行ってからずっと考えていたことをつらつらと述べたいと思います。

 

参戦してから結構時間が空いてしまいましたが、頑張って思い出します。

 

ここの文章で言う自分とは、ヘキサのことまたは個人一般のことを指します。

そして、オタクというのは統一して応援行為をしている集団のことです。

応援行為とは、合いの手や掛け声、コールやタオル回しなど、ライブで集団となって行われる行為のことを指します。

 

それを理解して読んでくださると幸いです。

 

決してオタクを卑下しているわけではありませんっっっ!!(←これ大事)

 

 

 

声を届ける?

 

まず、これを考えた理由は、自分の声や光は出演者に届いているのか?という疑問が始まりです。

 

もちろん、音や光は自分を中心にどんどん広がっていくので、出演者に届いていないわけではなさそうですが……

 

それでもその会場にいる何人ものオタクが同じ行為をしているのです。

 

※イメージ 

 

自分の声がオタクによって掻き消されているならば、自分の光がオタクの光の中に紛れているなら、応援行為を行う意味ってなんだろうか?って思いました。

 

 

では、出演者の立場に立って考えてみましょう。

 

出演者はヘキサの声をはじめとする個人の応援行為の声は聞こえていません。

 

個人の声ではなく、オタクとして完成された声を聞いているのです。

 

オタクとして完成された声というのは、オタクの声の総和ではなく、オタクの声の平均なのです。

 

この平均の声を形成するために声を出すのです。

 

自分が声を出さなくても1万人の声が出れば、1人くらい声を出さずとも出演者にはオタクが応援行為をしたという認識になるし、そこにいるのは個人ではなくオタクなのです。

 

 

心の声:「やっぱりオタクの集団を形成する一人に成り下がるのか……」

 

 

では、ライブに参戦している間はオタクとでしか捉えられないのでしょうか?

 

しかし全てがそうではありません。

 

例えば、下田さんとO氏(このように定義します)のやり取りのMC。

 

初星の2日目のMCで、下田さんが亜美・真美賞を発表したら、受賞者は偶然にも会場にいるO氏の作品だったのです。その時、下田さんは本来捉えられる意味とは違う解釈をして出演者に総ツッコミを受けるシーンがありました。

 

下田さんはO氏に対して

 

下田:「これ(の解釈)でいいよね?」

 

とステージ上から呼びかけ、

 

O氏:「大丈夫です!」

 

と客席から返しました。

 

この時は当たり前ですが、出演者から見てO氏はO氏であり、オタクではありません。

 

このように、お互いが誰かと認識している状態での相互行為は、オタクではなくなり、個人として認識されるのです。

 

 

 規定された境界線

 

曲が終わった後の音がなっていない時間やMCの途中にヘキサや他の人がやっていたかっこいいよ!」「頑張れ!などといった声かけは個人ではなくオタクとしての行為なのです。

 

※イメージ 

 

これは、声をかけられた方が声をかけた人のことを個人として認識していないからです。

 

ただのオタクの一部の人がやっているだけの行為に過ぎないのです。

 

集団から見てある一定の割合で声をかける行為を行う人がいるというのは社会的に発生することなのです。

 

なぜなら、どの曲が終わっても一定の割合で声かけが発生していたからです。

 

誰が声かけをすることは決められていませんが、ある一定の割合で声かけが行われることは社会的に発生します。

 

それは、曲が終わったら音が鳴らないという規律を逸脱する行為なので、犯罪の社会学でも説明できます。

 

犯罪者の割合はある一定の割合で推移しており、法律が変わったから、罰則が厳しくなったからといって(犯罪者の割合は変わりますが)犯罪がなくならないのです。

 

法律というのは集団が勝手に決定した枠組みです。

 

曲が鳴ったら音は鳴らさないという規定はオタクが勝手に決定した枠組みです。

 

その枠組みがある限り、外れる人は一定の割合で存在します。

 

(もちろん声かけは違法行為でもないし、悪いことだとも規定されていないので、別に声かけが悪いよという意味では)ないです。

 

どこかで線引きをすれば線の中にいる人と線の外にいる人が分かれるという話です。

 

そして、この線引きはライブの間にいくつか規定されています。

 

例えば、春香が歌っている曲の時は赤色を出すという規律があったとしましょう。

 

初星2日目で言うならステキハピネスの時です。

ステキハピネスの様子を思い出すと、もちろん会場は赤色に染まっていました。

 

しかし、一定数の人がオレンジなど、赤ではない色を出していました。

 

もちろん、これは悪いことではありませんし、何色を振るかは個人の自由に委ねられています。ただ暗黙の規律があるだけです。

 

この時、出演者は平均として赤色だと認識します。

 

そしてそれを見たヘキサも、平均として「赤色に染まる」と前回のブログで書きました。

 

もちろん、ヘキサも認識はしているのですが(おそらく出演者の方も認識はしていると思われる)、その状態を短い言葉で表す術がないので、平均として赤色と定義付けしています。

 

もちろん、規定は必ずしも定められているわけではなく、規定が変わる可能性はあります。

 

例えば、響の「Rebellion」という曲は、響の原則に則れば水色を振るという規定があります。

 

ただし、沼倉さんの発案やオタクの「総意」によって「真実の赤」以降は赤色に変えるという新たな規定が生まれました。

 

その結果、水色以外もいれば、真実の赤で赤にならない人もいます。

 

でも、平均として水色から赤に変わったという言い方をしているのです。

 

出演者の方がよく「一人一人が見えてるよぉぉ!」とは言いますが、結局はオタクの平均でしか見られず、いくらヘキサが光を振っても声を出してもオタクの中の1人だとしか見られないのです。

 

オタクと自分は行き来できる場合もあるのですが、原則出演者から見れば、会場に足を運んだ瞬間にオタクになるのです。

 

オタクの平均の行為から大きく逸脱した行為をすれば厄介オタクという名を与えられてオタクの社会の中から非難されるのですね。

 

 

アイマスのライブに行く意味と価値

 

ではここで改めてアイマスのライブに行く意味と価値についてヘキサなりに考えていきます。

 

もちろん、アイマスというコンテンツの中で生まれた曲を聴くためやそれを歌っている声優さんに会いに行くためという理由はもちろんあります。

 

それは大前提で最大の目的です。

 

でも、それだけではないということを前の文章を踏まえて考えます。

 

 

まずアイマスのライブに行くオタクの数は多いということです。

 

当たり前ですが、毎回どの会場で行っても抽選漏れや当日参加できない人が多くいるのがアイマスのライブです。アイマスのライブは根強い人気があり、チケットもプレミアが付くほどです。

それほどまでにアイマスのライブに行きたい人が多いのです。

 

だから、会場に来ている人というのは何度もe+の抽選に落ちている人も多く、ライブに参戦することにそれなりにモチベーションが高いです。

 

つまり、実際の応援行為にもそれだけ熱があるということです。

 

だから、応援行為が一つのショーパフォーマンスとして成立します。

 

例えば、1万人のキャパシティの会場であれば、ほぼ1万人が埋まり、ライブが始まればその1万人が同時に同じコールをそれなりの熱量で行います。

 

日常生活の中で1万人もの人が同じことをやっている状況ってなかなかないですよね。

 

でも、アイマスのライブ中にはそれがさも平然であるように行われます。

 

自分もその1万人の中の1人として動くことができること、また1万人が揃った行動を行う様子を見ることができるというのは大きな価値のあることだと思います。

 

実際、ヘキサはそれを見るのが好きで、日体大のパフォーマンスとして有名な「集団行動」を見るような感動を味わいます。

 

多数の人が一度に同じことを行うというのにはかなり高い水準の規則を遵守する力が求められます。

しかもその規則がかなり細かい部分に規定されていることが必要です。

 

アイマスのライブでは、この高いレベルでの規則の遵守が行われています。

これこそが民度の高さと呼ばれるものであり、同調圧力の形成でもあるのです。

 

集団的にかなり強い同調圧力が求められます。

 

その証拠がこのライブでのコールであり、アイマス警察の存在なのです。

アイマスのライブでは、著しく集団とは違う行為を行っているものに対しては他の人が注意する例が多く存在します。それがアイマス警察の存在です。

アイマス警察が存在する”ということがアイマスのライブの中の同調圧力の高さを証明するのにとって充分すぎる証拠でしょう。

 

そしてもう一つ同調圧力高さを説明するのに割れ窓理論を用いることもできます。

 

割れ窓理論とは、泥棒は綺麗な窓の家ではなく割れた窓の家に侵入する可能性が高いという理論です。

つまり、整っている状況の中では規則を破ろうという気が起きにくいということです。

 

アイマスのライブでは高い同調圧力のもと集団が統制されているので、もしこの集団の規則を軽い気持ちで破ろうと思ってもやっぱり破らないでおこうと思い直す人がそれなりにいるのではないかと考えられます。

だから、高い同調圧力がさらに高まって同調圧力を生むのです。

 

ここまで高い同調圧力によって規則の遵守が求められるアイマスのライブの中で行われる応援行為は、ペンライトの色や声の出す部分などがピタリと揃って聞こえます。

 

※イメージ

ちなみに、アイマスライブでのPPPHは圧巻の声量と揃い具合!!

 

この感覚は、ある意味自分の中の参加者としてのプレッシャーはありますが、俯瞰してみると非日常の感覚から感動を覚えます。

 

しかも、これはヘキサだけかもしれませんが、社会学の話を思い出したくなるくらい、ここまで理論的な社会学をはっきりと可視化できる場所という点においてもアイマスのライブは希少性を誇るものだと思います。

 

だから行って面白いんだとヘキサは感じました。

 

ある意味怖いもの見たさ??

 

現実と勉強の学びが結びついた時に面白く感じるというのは、教育実践家として有名な今泉博が著書の中で主張している意見の一つですね。

 

この事例からも本当にそう思います。

 

ってか今泉博唐突すぎwww誰やねんって感じwww

おひまがある方はグーグル先生に聞いてください。(←なげやり)

 

 

おわりに

 

今回はオタクの応援行為をヘキサがヘキサなりに考えてみました。

 

ヘキサは社会学者でも社会学部出身でも何でもないので、理論とかには間違っている部分や見解があると思うので、それについては暖かく目を瞑ってくれると嬉しいです。

 

なんかここまで書くとオタクの行為嫌いなのかとか嫌味が強いとかウザいとか言われそうですが、そんなわけではなく、一緒に同じものに対して同じ好感を抱く人はヘキサは好きです。

 

でも、アイマスのライブの中に非日常的な感動がいくつもあって、前回のブログでは書ききれない感動をここで書けたらいいなと思い執筆しました。

 

この良さをわかってくれる人がいたらいいなぁとも思っています。

 

 

ちなみに、この記事の内容をテトに話しました。

 

ヘキサ:「……(記事の内容)っていいと思わない?いいよね??」

 

テト:「ちょっごめん理解できないwww

 

 

あっはい。

 

 

最後まで駄文にお付き合いいただいてありがとうございました。

 

 

 

(ヘキサ)